幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家だった山岡鉄舟(1836−1888)。
剣、禅、書の達人で見栄えもよく、激動の時代を生きたオールマイティのヒーローのような存在です。
そんな山岡鉄舟の私生活を支える家族、両親、結婚した妻や子供、子孫はどんな人達なのでしょうか。
やはり甘党で、鉄舟と同じように木村屋のあんぱんが好きだったのかも、少し気になるところです。
山岡鉄舟の両親
鉄舟の父親は江戸幕府の蔵奉行をしていた小野朝右衛門(小野高福)。禄六百石を受け、1845年、江戸御蔵奉行から飛騨郡代になりました。外国船渡来の対して、城山で狼煙の実演をしたり、上野で陣立を行なったりしました。
母親は常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の娘、塚原礒(つかはら いそ)。小野朝右衛門が63歳のときの再婚、礒は26歳でしたので、かなりの年の差婚でした。母 礒は、鉄舟を寺子屋に通わせ、町の子供と同じように勉強させました。変化していく世の中でも自分の考えをしっかりもつ人になることを願っていました。
鉄舟はこの2人の間に4男として生まれました。
しかし、鉄舟が15歳のときに母が亡くなり、翌年は父が亡くなり、両親を失った鉄舟は、弟たちを連れ、江戸にいる異母兄の屋敷に移ります。
岐阜県高山市の宗猷寺には、両親の墓があり、碑面には鉄舟の筆跡の法号があります。
山岡鉄舟の結婚した妻
江戸で山岡静山に忍心流槍術を学んでいた縁で、静山の弟・謙三郎らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚して、山岡家の婿養子となりました。鉄舟20歳、英子16歳のときです。
新婚生活は経済的に苦しく、鉄舟は少ない持ち金を全部見せて、英子に家計のやりくりを頼んだそうです。鉄舟は、家庭では大声をだしたり乱暴な振る舞いはしなかったのですが、家計については無関心で無責任な面が多々あり、妻英子は生活費の工面に苦労しました。けれど、この時代の夫にしては、とても妻にやさしかったようです。
赤ちゃんの出産は真冬だったが布団も十分にない。鉄舟は自分の着ていた着物を脱いで、英子に掛けてあげ、鉄舟は褌一本で英子の枕元に座り、看護しながら座禅を組んでいる。目を覚ました英子がビックリして
「それでは風をひきます。せめて羽織だけでも着てください」
というので
「そうか」
と、裸に羽織を着たが、英子が再び寝てしまうと、またそっと羽織を英子に掛けてあげる。また、英子が、ふっと目を覚まし、裸で座禅を組んでいるのを見て起き上がろうとするのを
「心配するな。裸の寒稽古をしているのだ。禅では寒中裸修行は当然だ」
と笑い飛ばす。 出展:山岡鉄舟研究会
しかし、鉄舟は女遊びは派手で、「日本中の女性と関係を持つ」と豪語していたほど。英子の「子供3人と一緒に自殺する」とまで言われ、浮気は控えるようになりました。鉄舟が「情欲」について悟りきったのは死亡する2年前の49歳のときだったと言われていますから、英雄にはつきももの男の性を感じますね。
山岡鉄舟の子供と子孫
鉄舟と英子の間には3人の子供がいました。初めの子は夭折、長女は松子、次女嶌子、長男直記です。
直記は鉄舟のように優れた才能をもっていなかったようで、愚息といわれてしまうこともあります。 直記は、詐欺まがいのことをして子爵を取り消されたり、会社を倒産させたり、勝海舟に資金援助をたのんだなどの逸話もあります。
この直記の息子が武男。成川家に養子にだされ、成川武男となります。そして、その息子、鉄舟の曾孫にあたるのが、成川勇治さんという方です。2004年84歳で亡くなるまで、鉄舟縁の地 埼玉県小川町に住んでいました。
女遊びが激しかった鉄舟には庶子がいたのかも知れません。孫が養子に出されたりしているので、鉄舟の血を分けた子孫を現在に見つけるのは難しいかも知れません。
鉄舟の好きだった木村屋のあんぱんは家族も好きだった?
山岡鉄舟は木村屋のアンパンが好きで、毎日食べていたとも言われていますね。
木村屋は明治2年(1869)、木村安兵衛が開業。安兵衛と鉄舟は、明治維新の前から剣術を通しての知り合いで、政治、思想、嗜好のことまで話し合う仲の良い友人でした。
大男で大食いとしても有名な鉄舟は、この新しい手法で焼き上げるあんぱんを気に入って、天皇陛下に献上することまで考えます。毎日食べていたかどうかはわかりませんが、かなり頻繁に食べていたことでしょう。このあんぱんを鉄舟が安兵衛から買っていたのか、安兵衛が試食として鉄舟にふるまっていたのかは不明です。ですから、鉄舟もたまには家族にあんぱんを持ち帰ったこともあるでしょうが、当時は高価なものでもあったし、毎日家族もあんぱんを食べてはいなかったでしょう。しかし、甘いものがまだまだ貴重な時代ですから、家族もあんぱんを非常に美味しく感じ、好きだったに違いありません。
鉄舟は念願かなって、明治8年(1875)4月に、東京向島の水戸藩下屋敷を行幸された明治天皇に桜あんぱんを献上することとなりました。
明治天皇は桜あんぱんを大変気に入り、「引き続き納めるように」というお言葉をいただき、その記念として書家でもあった鉄舟は「木村屋」の看板を書いて贈っています。
参考:
山岡鉄舟研究会
ウキペディア 山岡鉄舟
銀座木村屋總本店
高山市公式観光サイト