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陸奥宗光の妻亮子、イケメン夫に寄り添う美女妻の献身愛。エピソードを紹介。

幕末・明治の政治家 陸奥宗光(むつ むねみつ)。

脱藩して国事に従事しましたが、国事犯として下獄。

伊藤内閣の外相として、条約改正や下関条約締結に貢献など、波乱に満ちた人生を送った陸奥宗光を献身的に支えたのが、美人妻 亮子

陸奥宗光と妻 亮子のプロフィール、経歴、子供や家族のエピソードを追いながら、イケメン夫と美人妻の関係を見ていきましょう。

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陸奥宗光のプロフィール、経歴


<引用元:https://nippon-kanshibun.net/>

氏名:陸奥宗光 (むつ むねみつ)

生年:1844年8月20日

没年:1897年8月24日 享年53歳

出身地:和歌山県

1844年、陸奥宗光は、紀州藩の勘定奉行を務める父・伊達宗広と母・政子の6男として生まれました。

15歳の時、江戸に出て、儒学者の安井息軒の元で勉学に励みながら、尊王攘夷運動へ参加しました。

しかし、吉原に通い女性とばかり遊んでいることが安井にバレて追い出されてしまいます。

その後は、法学者の水本成美の元で学び、そこで伊藤博文木戸孝允、そして坂本龍馬たちとの運命的な出会います。

1863年、19歳にして、勝海舟リーダーの神戸海軍操練所へ坂本龍馬と入り、親交を深め海外情勢を学び、亀山山中、海援隊として行動を共にします。

貿易で収入を得ながら、政治や航海術まで学び、武力に頼らず、知識と新しいアイディアで世渡りしていく宗光を、龍馬は「刀を2本差さぬとも食っていけるのは俺と陸奥だけぜよ」と大絶賛したとか。

1868年、25歳、岩倉具視の指名により、明治政府の役人となり、外国事務局御用係、兵庫県知事、神奈川県知事そして税制改革を行った地租改正局長を歴任します。

しかし、1872年、29歳で、明治新政府に居心地の悪さを感じ、政界から身を引き、地元の和歌山へと帰りましたが、1875年に世界に戻り、元老院議官となります。

1877年の西南戦争の際に政府転覆計画に加担したことで、5年の禁固刑を受け入獄。

伊藤博文、岩倉具視らの働きにより釈放されると、ヨーロッパへ留学。

議会や内閣の仕組みを学び、日本の政界を世界レベルにあげようと、帰国後は駐米公使となり、日墨修好通商条約の締結に成功したのです。

第1次山縣内閣の農商務大臣、第2次伊藤内閣の外務大臣として就任し、不平等条約の改正へ向けて大きく動き出します。

1894年、イギリスとの条約改正交渉において、日英通商航海条約を結んだり、下関講和会議には全権委員となり活躍。

しかし、1895年、長年患っていた肺結核の悪化により外務大臣を辞任し、政界を引退します。

病状は回復せずに、1897年に肺結核により永眠しました。

宗光は、幅広い知識と瞬発性のある頭の良さで、その政治手腕は、カミソリ大臣やカミソリ外交とも称されています。

イケメン 陸奥宗光

明治の新聞『毎日電報』で、(1910年11月7日発行)は、「西洋婦人の見た日本の美男子」という記事の中で、駐米公使の未亡人エレンが「私が見た日本男子の中の一番美しい方」だと陸奥宗光を評しています。

これは、『毎日電報』で美男子を募集した時の記事です。

美男子の条件は正しい、強い、品位ある、日本を代表するに足るべき堅固な意志と愛情の優味を映出した「立派な顔」を意味する日本の代表的美男子」を求めるとしています。この企画には、1,000名を超える応募があり、かなりの反響がありました。

この美男子代表として上がったのが、陸奥宗光です。

「外交家の最初にして、又最終の条件は顔面の優秀にある」という言葉が引用されていて、国際基準のイケメンであった事が分かります。

このコンテストがあったときには、陸奥宗光はすでに亡くなっていますから、存命中にイケメンとして、御婦人方にモテていたかどうかは定かではありませんが、明治紳士としての必須条件のヒゲは生えていますし、確かに怜悧な容貌はしていますね。

陸奥宗光の妻

陸奥蓮子  1846−1872

大阪の芸姑で「お米」と言いましたが、結婚のため陸奥が大阪判事の時身請けしました。

三井家の大番頭の養女になって結婚。

二人の息子をもうけますが、陸奥が、薩摩藩と長州藩のメンバーが中心だった明治新政府に反発して、和歌山に帰郷していた時に36歳で死亡。

陸奥亮子  1856−1900

<引用元:https://iijimaaichin-benz-royce.amebaownd.com/>

東京新橋にある柏屋の芸姑 小鈴の名で新橋で一、二を争う美貌の名妓でした。

前妻蓮子が亡くなった3ヶ月後に陸奥の後妻となります。

社交界では「鹿鳴館の華」と呼ばれ、1888年むるに連れ添って渡米した時は「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と称されるほど、美しい女性でした。

陸奥宗光が亡くなった3年後、インフレルエンザで43歳で死亡。

陸奥宗光の子供たち

陸奥広吉(廣吉)  1869−1942

先妻 蓮子との間に生まれた長男。

亮子、宗光、広吉 <引用元:https://ja.wikipedia.org/>

外交官で鎌倉女学院校長。

妻はイギリス人のエセル。

息子はイアン陽之助(1907年ー2002年)。

<引用元:https://www.facebok.com/>

インタナシヨナル映画社長。妻に元NHKアナウンサーの本田寿賀と、92歳の時に結婚した祥子がいます。

陸奥宗光の他の子供は夭折したり、独身だったので、宗光の孫は陽之助だけです。

潤吉 1870−1905

先妻 蓮子との間の次男。

<引用元:https://ja.wikipedia.org/>

実業家、古河市兵衛の養子となります。

養父とともに足尾銅山の経営をしますが、35歳で死亡。

清子 (さやこ) 1871−1893

後妻 亮子との間の長女

<引用元:http://osaka-siseki.cocolog-nifty.com/>

清子は亮子と結婚した翌年に生まれています。

清子の名前の由来は、隅田川の近くにある清澄町から取られたのだと言われています。

22歳で腸チフスで死亡。

冬子  1873−1904

祇園の芸者と宗光の間に生まれました。

亮子が引き取って育て、宗光の死後、息子 広吉の養女になっています。

しかし結婚もぜず31歳で死亡。

妻 亮子は良妻賢母

17歳で宗光と結婚した亮子。

政界から一時身を引き、妻にも先立たれた自暴自棄になりそうな宗光にとって、絶世の美女の亮子との出会いは、まさに天の救いにも思えて、直ぐ様身請けをして結婚したのではないでしょうか。

宗光はまた仕事に復帰し、忙しく活動していて、家の切り盛りや子供の世話は、亮子に任せっきりでしたが、亮子は実子は清子だけであっても、4人の子供を分け隔てなく育てたそうです。

20代前半で4人の子供を育てるのはかなりの苦労もあったでしょう。

長男の広吉とは年が一回りしか違わないので、弟のようでしょうし、次女の冬子は、結婚しても芸姑遊びを辞めなかった宗光の責任をとった形でしょう。

しかし、亮子は文句一つ言わなかったそうで、明治時代の良妻賢母の鏡のようです。

獄中からのラヴレター

陸奥宗光が政治犯で投獄されると、宗光は毎日のように、亮子に手紙を書き続けました。

亮子は、宗光が監獄にいる間、陸奥の友人 津田の家に子供と姑と共に、身を寄せていました。

宗光の手紙は漢詩が多く、夫婦の慕情を綴ったものが、多かったようです。

伊藤博文の手配りで、もっとも設備の整っていた監獄に収監されていたので、宗光は、比較的恵まれた環境にいました。

懲役刑でなく禁錮刑ということもあり、時間も十分にあったでしょうから、妻に会えなくて寂しいなどと、なにかと思いをめぐらして、愁いに沈むことも多かったと思われます。

妻 亮子 貴婦人への道

<引用元:https://matome.naver.jp/>

宗光は出獄を許されるとすぐに、ヨーロッパへ2年間留学します。

この外遊期間も亮子に宛てた手紙は50通を超えていました。

この時は、単にラブレターだけでなく、帰国後は外交官になる計画がありましたから、亮子に公使夫人としての必要な教養を身につけるように、指示します。

亮子は、英語、文学、歴史、テーブルマナー、ファッションの勉強を子育てをしながら必死で行い、陸奥夫人として恥ずかしくない知識と作法を習熟します。

宗光が、帰国後、社交界にデビューし、美貌と教養を兼ね備えた貴婦人として「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになります。

また渡米した時は、亮子の話術も評価され、日本が優れた文化を持つことのアピールに役立ちました。

また伊藤博文の妻、梅子夫人と共に、慈善バザーや慈恵医院の設立の活動もしました。

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妻 亮子は夫 陸奥宗光を愛していたのか

亮子は宗光に対して恩義は感じていたに違いありません。

宗光が見初めなければ伯爵夫人になれず、花柳界で生涯を終えていたわけですから、美貌が功を奏するシンデレラストーリーです。

しかし、陸奥夫人になってからが、本当の苦難の道でした。(シンデレラも王子様と結婚してからの王室生活には苦労したことでしょう)

血の繋がっていない子供を何人も育て、貴婦人となるべき勉強をし、上流階級の人たちとの付き合いは、体の弱い亮子にとって、辛い毎日だったのかもしれません。

けれど、亮子の努力によって、日本と日本女性のイメージが、諸外国に非常に良い印象を与え、カミソリ外交官にはかなりのプラスになり、夫の仕事に貢献したのも確かです。

明治時代の女性は、男性に献身的に尽くすことが良いとされていましたから、亮子もそのトレンド精神に何の疑問もなく、宗光に尽くし、満足していたのかもしれません。

それは夫を愛していたからなのか、習慣に従っていただけなのか、または、飛躍した女性になりたかったのかはわかりません。

こうしたエピソードを見ると、美貌と教養を兼ね備えた明治の貴婦人 陸奥亮子が、本当に幸せだったのか?と懐疑的になってしまうのは、我々が現代人だからなのでしょうね。

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