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熊谷守一の家族、妻と子供、展覧会について。美術館の館長は娘の榧。

日本のフォービズムの画家と言われながら独特の抽象的絵画に没頭していった熊谷守一(くまがい もりかず)。

晩年は自分の家の庭以外に外に出ることもせず「孤高の画家」「画壇の仙人」とも呼ばれています。

本記事では熊谷守一氏の略歴、家族、両親、兄弟、妻、娘、息子、熊谷守一美術館、展覧会について紹介します。

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熊谷守一の略歴

<引用元:https://business.nikkei.com/>

生年:1880年4月2日

没年:1997年8月1日 享年97歳

出身地:岐阜県中津川市

学歴:慶應義塾普通科、共立美術学館、東京美術学校

熊谷氏は12歳の頃から水彩画を始め、17歳で上京。

東京美術学校では西洋画を学び、黒田清輝、藤島武二らの指導を受けました。

同期には青木繁、和田三造がいます。

1909年、29歳の時『 蝋燭ろうそく』により第3回文展で褒状を受賞。

翌年一時帰郷し、日雇いの材木運搬をはじめ、さまざまな仕事をしました。

5年後に再上京し、二科会で発表を続け、二科技塾の講師も務めます。

池袋モンパルナスの地域近く(豊島区千早町)に住み、1938年には初個展(墨絵)を開催。

自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描き、洋画、日本画、書、墨絵の作品も多数残しました。皿の絵付けなどもし、摺師との仕事を楽しんで制作した木版画もあります。

<引用元:http://yanagase-web.seesaa.net/>

戦後は明るい色彩と単純化されたかたちを特徴とする画風を確立し、高い評価を得ます。

1967年 87歳の時、文化勲章の内示を辞退し、1972年 92歳のときの勲三等叙勲も辞退しています。

76歳の時、脳卒中で倒れてから、写生旅行や長時間立っていることができず、晩年の20年間は、ほとんど自宅の庭での自然観察を楽しみながら制作していました。

1977年、97歳で肺炎と老衰のため他界しました。

熊谷守一の両親

父親は熊谷孫六郎、母親はタイ。

熊谷守一氏は二人の間の三男(七人兄弟の末っ子)として生まれました。

父親は、機械紡績工場、製紙工場、牧畜業を営み、事業家として成功し、岐阜県初の県会議員となりました。

市のために私財を投げ出してまで発展に貢献し、地元の名士でした。

しかし、妾二人とその庶子が沢山いて、守一氏が3歳のとき、母親から引き離され、岐阜市の製紙工場近くの邸宅に妾と腹違いの兄弟たちと、一緒に暮らすことになりました。

守一氏が時々生家に行くと、母親は、風呂桶の漏れを、豆で詰めながら修理しているほど経済的に困っているのを見ています。

一方、一緒に暮らしている妾たちは、その姉妹までも引き取り屋敷に住まわせ、髪結い、化粧、着物の織り子を専用に雇っており、この差に愕然としたそうです。

この特殊な生活環境に育ったために、人を信じられなくなり、人との関係を持つことを恐れ、絵に没頭していったとも言われます。

守一氏が23歳の時父親は亡くなり、生活は一気に困窮し、材木の日雇労働などをせざる負えなくなりました。

母親は、30歳のときに亡くなり、守一氏は「父の像」「母の像」を残しています。

父の像<引用元:https://ameblo.jp/>

熊谷守一の妻 秀子

1922年、42歳で大江秀子(1898-1984)と結婚します

秀子は和歌山県日置郡南部町の生まれで、大江家は近在きっての豪商で、山林地主でした。

秀子にとっては守一氏との結婚は再婚で、18歳年下です。

<引用:http://enmi19.seesaa.net/>

秀子の初めの結婚は、遠縁の美大生 原愛造と19歳の時でした。

原愛造との婚約時代に、熊谷守一氏とは音楽グループを通して知り合っており、守一氏は秀子をモデルに『某婦人像』を描き二科展に出品しています。

<引用元:http://czt.b.la9.jp/>

守一氏と秀子は恋に落ち、泥沼のような愛憎劇の末、愛造との離婚をし24歳の時に守一氏と結婚します。

その後二人は苦楽を共にし、秀子なしでは守一氏の偉業は達成しなかったし、97歳という長寿は保てなかったとも言われています。

熊谷守一の子供

守一氏と秀子の間には5人の子供が生まれています。

長男・黄、次男の陽(1925~28 肺炎で3歳で死亡)、長女の萬(1924~47 肺結核で23歳で死亡)、次女の榧は画家・日本山岳画協会会員、三女の茜(1930〜1932 病死)。

長男 黃 (おう) 1923−2005

熊谷守一氏と親交があった作曲家の信時潔の長女のはると結婚。

守一氏は、自らチェロやヴァイオリンや三味線を奏でる音楽愛好家で、作曲家の信時潔とは30代からの友人でした。

絵を描くことをせず信時の資料を元に、音の周波数の計算に熱中していたこともあったそうです。

2004『熊谷守一の猫』の画文集を刊行。

<引用元:https://www.amazon.co.jp/>

また守一氏の絵画、日記、スケッチ帳などを岐阜県に寄贈もしました。

老衰のため東京都国分寺市の自宅で死去、享年81歳。

次女 榧 (かや)  1929〜

画家、日本山岳画協会会員

守一氏が49歳の時に生まれました。

<引用元:https:www.youtube.com>

1951年、 日本女子大学卒業。

20代より山に魅せられ、多くの山を巡るうち自然と絵を描き始め、父親と同じ「画家」という道を歩み出します。

山スキーのとりこになり、1960年代には既にヨーロッパの雪山をガイド付きで滑るという、当時では、日本人女性としては稀な活動をしていました。

雨雲の涸沢 <引用元:https://www.komorebi.co.jp/>

1977年、父・熊谷守一の死後、東京都豊島区千早にあった守一の旧居跡地に熊谷守一美術館を1985年創立しました。

結婚して娘が二人います。

父親が大好きだった榧は、結婚しても豊島区の実家に夫と同居したのですが、守一氏のヤキモチのために、一ヶ月もいられなかったというエピソードがあります。

熊谷守一 2019年の展覧会

熊谷守一美術館

<引用元:https://sumally.com/>

愛知県美術館(木村定三コレクション)から2点の「百日草」も出品しており、常設では観られない作品が数多く展示されています。

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熊谷守一の家族愛

熊谷守一氏は幼い頃実母と離れ、妾や異母兄弟の中で暮らし、仕事で忙しい父親とは月に一回も会えなかったようです。

その複雑な家庭環境もため、人間嫌いではなかったものの、自分の内に引込こもる性格で家族という形に不信感があったのでしょう。

経済的な理由があったにせよ、初めての結婚が42歳という晩婚ですから、もし秀子に出会わなければ一生独身を通すつもりだったのではないかと思われます。

またとても子煩悩だったのですが、5人の子供のうち、3人をも失くし、子供が亡くなるたびに守一氏は深い悲しみを作品に残しました。

秀子と結婚してから、画家としてだけでなく、人生の大きな転機を迎え目立つことなく自分の思うままに生きてこれたのも、自分の家族という存在があってのことに違いありません。

道端の草や花、飼い猫や近所の動物、庭にいる昆虫たちを、じっと見つめて描きたいときだけ描いたという「熊谷スタイル」の作品たちが、私達の心を温めているのは、守一の家族との愛を感じるからなのでしょう。

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