脳卒中で半身不随になり闘病生活を続けながらも、力強い画風で日本画を描き続けた樋田洋子(といだ ようこ)氏。
本記事では、日本画家、樋田洋子氏の経歴、学歴、賞歴、作品や展覧会、そして樋田氏を最後まで支えてきた家族をみていきましょう。
遺作となった院展での入選作品「ラウス昆布」とは、どんな絵なのでしょう。
樋田洋子のプロフィール、経歴、賞歴
氏名:樋田洋子 (といだ ようこ)
生年:1942年
没年:2019年1月 (享年77歳)
出身地:茨城県古河市
学歴:東京藝術大学大学院日本画専攻
大学在学中に、1965年、第50回日本美術展で初入選。
東京芸術大学を首席で卒業し、卒業制作作品は、大学の買上げとなりました。
大学院在籍中に、1967年、第22回春の院展で入選。日本美術院院友に推挙され院友となりました。
日本美術院院友とは
日本美術院は、1898年創立の美術家の団体であり、公益財団法人。院展は日本美術院の公募展(展覧会)の名称として現在も使われており、院展と日本美術院はほぼ同義に扱われることが多い。現在は日本画のみを対象としている。院友は、研究会員であることを前提に再興日本美術院展覧会(院展)に3回入選で推挙される。 引用元:ウキペディア
1987年、有芽の会で、全国更生夫人連盟会長賞を受賞。作品は法務省の買い上げとなりました。
1997年、秋の「再興院展」で入賞。院展では春と秋にそれぞれ12回の入賞を果たしています。
日本画の制作と傍ら、大学や絵画教室の講師も務めました。
樋田洋子の作品
動画で「ラウス昆布」を御覧ください。
<引用元:https://www.youtube.com/>
樋田洋子 病気との戦い
1998年に自宅で展覧会の準備中、クモ膜下出血で倒れ入院。
左半身麻痺で、左側にあるものが認識しづらくなり、構図が画面右に偏るようになってしまいました。
また半側空間無視・気管喉頭分離などの障害、肉声が失われてしまうという重症疾患も患い、2003年6月に北海道阿寒郡鶴居村に夫の精一さんと移住。
鶴居村では、特別天然記念物タンチョウが11月から毎年訪れる自然豊かな場所です。
夫の精一さんは、「つるい養生巴病院」の院長でもあったので、リハビリをするには適していたと思われます。
しかし、その後、乳がん、間質性肺炎、糖尿病も発症し、次々と襲う病魔と戦う日々になりました。
「春の院展」入選を最後に、2019年1月に他界しましたが、車椅子生活になっても常に画壇復帰を志していました。
北海道特有のモチーフを描き続け、その絵画にはどこまでも諦めずに生き続けるという、力強さが伝わってきます。