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エクトール・ギマール(建築家)の作品と経歴!アールヌーボーの創始者でありながら忘却された理由

フランスの建築家、エクトール・ギマールHector Guimard)は、パリのメトロの入り口をデザインしたことで有名です。

本記事では、エクトール・ギマールの経歴、建築作品、またアールヌーボーの創始者でありながら、忘れ去られてしまった理由を見ていきましょう。

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エクトール・ギマールの経歴

生年:1867年3月10日

没年:1942年5月20日 享年75歳

出身地:フランス リヨン

整形外科の父親、服飾店経営の母親のもとに長男として生まれました。

15歳の時、装飾芸術を学ぶためフランスの国立学校に入学し、建築家のチャールス・ジェニスや装飾芸術家のビクター・マリー・シャルル・プリッチロバートに師事します。

卒業後は、母校の教授となりながら、中世の様式に自然の生物を取り入れた装飾芸術を作成していきます。

ギルマールは主にパリで活躍し、16区に多くの建築物を建設します。

建築家のジュール・ラヴィロット、ポール・ハンカー、ビクター・オルタと出会い、アールヌーボー形式を確立していきます。

ギマールの邸宅デザインは、ダイナミックでありながら繊細です。邸宅のデザインでは、抽象的な様式を用いて、絵画的表現を発展させました。それらは、甘美な曲線とは対極をなすものです。1900年以降、建築だけでなく装飾美術の分野など様々な場で、「ギマール様式」という表現がとりいれられました。

ギルマールが32歳の時、フランス在住のアメリカの画家の、アデライン・オッペンハイムと結婚します。1895年から1905年にかけて、ギマールの建築が最も好まれ、学校、集合住宅、別荘、コンサートホールを多数設計しました。

しかし、1914年に第一次大戦からは、建築活動は実質的に中止になり、大戦後は、装飾を否定する低コストな流線型で触診的なモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは退廃的なデザインだとして、世間からも美術界からも興味を失います。

ギマールは才能と創造力に長けていたものの、時代の新しい流れについていくことはできず、仕事は激変しました。また、妻アデリンはユダヤ人の家系であったため、1930年代後半のナチスの脅威から逃れるために、アメリカ、ニューヨークに移住しました。そしてフランスに戻ることなく、そのままニューヨークでギマールは死亡しました。

エクトール・ギマールの作品、建築物

エコールデュサクーレ、パリ(1895)

V字に配置された鉄の柱をつかって、鉄の構造技術の可能性の実証をしています。また先端は植物の芽、後端は根をイメージするような形は、アールヌーボー様式の実験的な試みだったようです。

Humbert de Romansコンサートホール、パリ(1897-1901; 1905年破壊)

この贅沢な建物はギマードの創造的な力を駆使したもので、表面と構造を覆い隠したアラベスクが描かれていました。構造の中心は八角形のコンサートホールで、鉄と豊富なマホガニーの羽目板のアーチ型の屋根の構造は内部の自然光を調整する効果があり、黄色とオレンジ色のガラスによってアクセントをつけられました。

ステンドグラス、マホガニーと共に、大理石を含む膨大な量の高価な材料でつくられたこのコンサートホールは収益を上げることができず、1905年に売却され、取り壊されてテニスコートになりました。

パリ・メトロポリタンの入り口 (1899ー1900)

ギマードが採用した曲がりくねった茎、球根状の自然の形を取り入れたデザインは、アールヌーボー様式の確立をもたらすのに役立ちました。この複雑なデザインが街のメトロ入り口にあることは、大衆の観客にとっても好評でありました。アールヌーボーは贅沢で、高価な建造物を買う余裕のある裕福な顧客のためだけに運命づけられたスタイルであるという概念を消し去ったのです。

HôtelGuimardのダイニングルームスイート、パリ (1909)

このダイニングの椅子はギマールのデザインの特徴が現れています。非常に微妙なカーブを持っていて、曲がりくねった彫られた椅子の足で、背もたれは高くて薄い。フランスの装飾芸術の「黄金時代」として見られるロココ調形式にも似通っています。その一方で、このキャビネットは大型収納デザインの典型であり、正面に向かってうねり、前方に膨らんだり、リズム感があり、観客の目が部屋の周りを動くようになっています。花と植物のモチーフのパネリング、テーブル、椅子が、壁の自然なレリーフモチーフと天井の周りにくねくねとしたブラケットを繰り返し成形することで、他のインテリアとほぼ違和感なくにフィットしています。

Agoudas Hakehilos パリ(1913)

ギマールの唯一の宗教的建造物で、パリ中心部の伝統的なユダヤ人街、マレのパヴェ通りにあります。非常に狭い敷地で、間口はほとんどなく、建物を上向きに構築することによって、特徴的な存在感を与えています。
この建物は、ギマールがアールデコに移行していこうとする姿が見られるもので、礼拝スペース、柱には特に明白にあらわれています。ギマール自身の美学から離れることを選んだ理由は正確にはわかっていません。

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エクトール・ギマール建築の再現

多くの作品が解体されてしまった後、1960年ごろから、ギマールとその作品世界を再発見するにいたり、またその歴史を丹念に再構成しています。

1970年代にはヨーロッパと北米での美術館展覧会は、ギマールと彼の仲間のアールヌーボーのデザイナーの評判を回復させました。1992年には、オルセー美術館で、ギマールの大規模な展覧会を開催し、パリでの世界博覧会やアールヌーボーを記念した大量の出版物にギマールの建築は紹介されています。パリの3区では1984年からエクトール・ギマール通りもできました。

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